母心

愛媛県立中央病院入院中の1991年に54才で亡くなった母の日記です。

1980年12月22日

なかなか寝付き悪く10時に看護婦さんの巡回に来る時知ってた。そのうちに眠ってしまったのだろう。トイレに行きたいので目が覚めた。時計見ると5時半だった。それから眠れず起きて着替えて寝る。何時頃だろうか。看護婦さん来て血液検査のため血取って行く。しばらくしたら6時のチャイムの音でカーテン開けて看護婦さん体温計持って来る。36.8度ある。歯が少し痛む。耳鳴りがする。看護婦さん来る頃収まっているので言ってない。

7時朝食。丹下さんよりパン二ツもらう。村田さんより食パン一枚、りんご一個、バターもらう。時夫にあげたらいいと思う。9時半美智子来る。注射して朝食させる。9時40分処置室に行く。皮膚科で足をしてもらうようなってたが主任さんが足は退院してからもできるから皮膚科と話しても良いかと聞くので退院してからしてもらうといっておいた。

今度は処置にて松本先生がどうなのかと聞くので黙ってたら、変わらないかという。婦長さんが高須賀先生何か言ったか、退院していいと言ったかと聞く。治療終わったら退院しなさいといったこと言うと横の看護婦さんが23日がいいから23日に帰りたいと言ったという。私はそんなこと言わなかったけど婦長さんは紙に書いてた。

明日秋山先生で診てもらって帰りなさいという。本当に23日に退院して良いのかしら。保険証と診察券持って来てくれという。後で持って行かなくちゃ。10時25分電気治療受けに行くついでに美智子送って行く。明日退院できること伝える。1ヶ月間は胸の所洗わないこと、跡がかゆくなるけどかかないでかゆみ止め薬付けることの注意受ける。お礼言って部屋に戻る。

エレベーター前で看護婦さんに会う。治療終わったこと伝えるとご苦労さん、明日退院おめでとうというのでお陰様でと返事しておいた。あまり嬉しくないのはどうしてだろう。やはりはっきり日にち言わなかったのでかもわからない。明日高須賀先生だから何か言うだろう。その時初めて実感わくだろう。

11時25分昼食。政岡さん食事車引っ張ってきて早く食べてよという。1時に喫茶店に行く約束してたが横のベッドの人来て村田さんと仲良く話しているので少し遅らせよう。1時35分少し遅くなったが1階の喫茶店に村田さんと入りカレーうどん食べる。

2時半37.1度ある。微熱あるけどそんなしんどくないが歯が痛むので寝ていたら眠ってしまう。3時半村田さんとお話をしていたら丹下さんのご主人からバスタオル二枚もらう。4時夕食。うどん食べてあまりおなか空かないので半分食べて出す。

6時十亀さんよりお菓子もらう。もうすぐ夫来るがと思っても来ない。今日は忘年会で来ないのだと思い出す。7時半36.8度。便1回、尿6回。毎日少々だが回数多い。8時テレビ見る。テレビ終わって電話掛けに行く。看護婦さんに差し出すものや先生にあげるもの買ってると思ったのにひとつも買ってないという。私に何故ちゃんと買っておかなかったのかと怒る。私は入院の身で何故買いに行けるというのか。やはり夫は私を患者と思ってなかった。もう元気で普通の人と同じに考えてるんだ。退院してもどうせ大事にしてもらえないし、お金のことばかり心配したり嫌なことばかり起こりそう。退院してもひとつも嬉しくない。ただ家で気を付かわず注射してしてあげれるのと美智子が毎朝来なくても済む。ただそれだけ。私は何のため手術したのかしら。わからない。