母心

愛媛県立中央病院入院中の1991年に54才で亡くなった母の日記です。

生い立ち

(この生い立ちは1990年6月の入院中に書かれたものです)

長崎県東彼杵郡竹松村竹松郷での出生から


昭和11年9月12日竹松で生まれる。父親はスキ作りである。趣味は植木である。それに切り細工で手の器用な人である。良く酒を飲む人である。飲んで酔ったら1畳ほど勉強部屋があるが、そこに座っておらんでいる。

母は私の5才の時に死去したらしい。病気で昔だから良い薬も病院もなかったらしい。今だったらあるし、良い薬もあるから治ってたろうに。病名は紫斑病。

その前に今の母の姉さんらしいマサという人と一緒になってたらしい。先の母親は千代という。この人は後妻である。先妻の母はマサという人らしい。父親は福井福左衛門という人らしい。

マサさんには男の子で時夫、金子、英夫三人いる。千代の後妻だが私と孝子、則子、和利である。

母は5才の折に死んだので可哀想といって養女に今の両親にもらわれる。父は定雄。春子に子供1人いてたらしい。おばあちゃんに預けて父と一緒になったといっている。子供の名前は洋子という人らしい。私は顔を知らないが、確か孝ちゃんや則ちゃんは知っているはず。

父は海軍さんだった。戦争に日本は敗れ去り軍人は辞める。その時は私は佐世保の幼稚園生だったと思う。勝原町と名前覚えている。良く海軍さん二人遊びに来てくれた。その時今も忘れない。サカまんじゅう作って食べた思いがある。墓か石塔か知らないが、あった記憶もある。

母は婦人部隊といって空襲に備えて良く白いエプロン掛けて私を連れて練習に行った覚えもある。その時6才頃だと思う。だんだん戦争に発破かけられてか、とうとう空襲に追い詰められて疎開の始末。戦争ひどくなる。

大村に変わる。線路際の住宅に住む。良く父は缶詰を持って来てくれた。優しい大きな体をした父親だ。家の横に防空壕を掘って空襲に備える。サイレン鳴ると空襲とおらぶ。電気は覆いをかけて防空壕に母と入る。たまには竹やぶがそばにあって布団かぶって入っていく。その時私の頭をかすめて横に刺さってた。破片である。もし布団被ってなかったらやられてただろう。ギクッとした。しばらくして解除になり家に戻る。

食べ物も乏しいので配給制である。砂糖の代わりにサッカリンが出だしたおかげで食べ物には不自由なく暮らせた。これも両親のおかげである。

そこは大村市上諏訪というところである。家の横に水槽があり、そこに子供の男の子が遊んでいる覚えもある。その時8才である。私は8才になったので小学校へ入学する。線路が前にある学校名、大村市西大村小学校である。友達もでき良く線路通って学校に通った。

正月は良く父とお膳挟み、良くお酒好きで私にも盃に飲めと言って差してくれる。飲んだら喜んで笑を浮かべてた。

また父の都合で家を変わる。学校名、三城小学校に転校した覚えある。同級生でそこの管理さんの娘さん、良く私の世話してくれた。家は知らない。忘れた。

次はまた竹松に戻り竹松小学校に転校する。家は海岸ばたで住所は黒丸、そこに居た。学校はちょっと遠かったが友達と一緒で話しながら往復してたので気にならない。その時は小学5年ぐらいだろうか。定かではない。農家でじゃがいも、なすび、トマトと良く成長して大きな野菜がなってた。男の子がなすやトマトをもぎ取って生なのに取って食べてた記憶もある。

夏になり男の子二人で船に乗せてあげると言って誘うから、私は乗せてもらい海岸端を出る。その時一人がわざと船をひっくり返すので私は海の中に落ちた覚えがある。それ以来海は嫌いになるし、海や川、船も乗るのは嫌。怖いから、客船は良いけど。

黒丸にいて草なぎといって広い流れて草ボウボウ畑地だったし、飛行機の破片や壊れかけた飛行物体が置かれていた。そこに住むようになった。掘っ立て小屋というわけ。隣が鉄ちゃんと英夫あんちゃん。その時はもう英あんちゃん帰っていた。昔風でいうと復員という。その前に農学校と中学校。郡中学校に入学。私は中学校1年だったと思う。

借家住まい、農家に借り住まいしてたと思う。横が線路だった。芝居見るためお父さんは5時に食事して3人で線路伝いに行く。行きしな父はギシギシが生えてたのをもぎ取って皮むいてしゃぶってたのを思い出す。

正月になると朝風呂に入っておとそ頂いたことも覚えている。照ちゃん3才ぐらいだろうか。これも定かではない。名前は忘れたが親しくしてもらった人を覚えている。3軒あったと思う。私は良くそこに遊びに行く。

そこからまた変わる。あまり人が住んでいない寂しいところだった。そこで父は縄編み機械で縄を作る。3人程雇ってしていた。

次にまた変わった。そこでは畑があった。うさぎをたくさん飼っていた。そこの一匹がいたちにやられていた。そこで肉として食べたこと覚えている。

隣に谷本さん若夫婦がいてた。まだ新婚さんかしら。ジョンという名の大きな犬がいてた。たき火している時その犬のジョンから噛まれた跡が未だに残っている。

家には丸といって四ツ目の可愛い犬を飼っていた。その犬が犬取りに捕まり、父は保健所へ行ってくれたがもういなかった。残念で泣いた。その時私は小学5年だったと記憶している。私が学校に行く時着いて来てその時捕まったと思う。

風邪が元で肺炎起こし、その時代のお金で5万円する薬買って飲ませてくれた。熱が高く、背中と胸に里芋入れた小麦粉を良く練って布に延べて貼ってくれる。三日ほど経って熱下がり段々元気になって友達と一緒に話しながら食べたら?味だった。かじるのがとってもおいしかったこと良く覚えている。

その時代はまだ終戦時代である。まだ直後で食べ物も不自由な時代である。農家に行っては麦わら拾って母と一緒に借りて臼でついた事も。ぎっとんぎっとんと足で踏む。懐かしく思い出す。

糠にさつまいもを薄く切って巻いて蒸したのを主食代わりに食べたのも記憶ある。その時は何も無い時代だからその時はおいしかった。食べず嫌いしてたらいつもおなか空かしているだろう。食べ盛りだし両親は大変だったと思う。

良く畑に父と一緒に行った。麦やさつまいも作る。荒地で石ゴロゴロしているところを耕したのだから大変だった。今思えば楽しい思い出になったがその時は生きるために大変だった。服もドンゴロスを女用に作り直して着せてくれる。父のオーバーほどいて作り直して着せてくれた。手袋も人に頼んで編んでもらってさせてもらった記憶強く持っている。懐かしい思い出だ。


また家を変わる。家は国のだから壊さなければいけないから。その時?さんという人の家借り住んだ。話逆になったが馬場さん、久賀さん、もう一人いてた。親切に付き合ってくれた。また母も良く私連れて昼に遊びに行った。懐かしい。会いたいと思う。

また変わってどこだか忘れた。同じ竹松だが私たち住んでいる上の人は百姓で金持ちだった。そこに女の子いてたこと覚えている。良く二人でまり付いて遊んだ。そのボールがなくなって私が盗んだといって騒ぎ出したことも記憶ある。何だか私の生みの父のいる家の上のような気がする。

それから小学生の時、竹松小学校入学して学校伝いに桜の並木道である。話逆になったような気がする。その時則ちゃんは6年生だった。遠足で枯れすすきがあってチラチラとわらびがあったと思う。大きな池があった。解散になり昼食の弁当時間になり私は大根飯を弁当に詰めて則ちゃんはさつまいも二つ持ってきていた。だがとってもおいしかった。もう一度大根飯作って食べたい。給食の時はなかった。食べ物不自由な時だから。

私は内気な引っ込み思案で友達とあまり遊ぶことなかったような。おはじきに縄跳びしたりして遊ぶ。運動場は案外広かったような。入学する際、アイウエオ、12345678910と書かされた。試験だったのかしら。そうかもわからない。先生2、3人いてたから。

遠足の折、池で溺れて死んだ。悲しい遠足になった。楽しいはずが心も暗く沈んで帰る。

父と兄とでスキ作ってた。良く売れたし、また良く人も話しに来た。囲炉裏で大きな鉄鍋でおかず作る。私は一番下の甘えっ子だから今の父が気に入って養女にもらったらしい。母はのんきでグズだから嫌いだったと後で聞かされる。

すぐ前が警察だ。そのはす向かいにお店があったような気もする。家の前に小川が流れている。そこで良く洗い物していた。その時に父は漬物店で働くようなったのかしら。知らないが、両親は良く3人、則ちゃん、孝ちゃん、和利さんになるだけ会わせないようにしたらしいが、やはり血が引いているせいか自然に則ちゃん達の所へ遊びに行くらしい。不思議だったと母は言っていた。

良く前の広場、防空壕のそばでままごとして遊んだのも覚えている。また子供時代に生まれ変わりたいと思う。

馬場さん良く子供連れて遊びに来た。そのおばさんと仲良かったのかしら。食べたらさっさと帰って行く。おじさんは坊さんだ。家が貧乏だからと言って良く食べに来ては帰る。おかしな親子である。その人には赤ちゃんと男の子が小学生3年がいてた。

和利さんと一緒に泳ぎに川に行く。黒い川とんぼいて飛んでいた。本当に懐かしい思い出。泳ぎすぎては体だるくなり帰って昼寝する。または孝ちゃんと和利さん、則ちゃんと4人で海に泳ぎに行く。黒丸だが泳いで貝殻で和利さんは足のかかと付近切った。則ちゃんが背負った。

私と孝ちゃん、のびるといって湯がいて酢味噌であえて食べる。あまりおいしくない。いわしかさつまいも食べたらおいしい。いわしは骨さいて生で食べる。好きだった。なまこもはらわたはきれいにすいて砂出して生で酢和えして食べると固いしコリコリと歯ざわりが良い。

昔は良くかごで売りに朝早く来る。黒田の浜の人が売りに来るが新鮮で本当においしい。

お金入ると人に上げたり、大酒飲みでたくさん買って大根に生鯨入れて食べさしてくれた。おいしかった。お金がなくなったら何も買わないへんこつの頑固者だ。父はお酒飲んで片足上げて座り、大きな声で自分の名を呼ぶ。一番の楽しみだ。

段々戦争もひどくなり疎開しなくてはいけないので諫早というところに借家住まい。友達無く、百姓の家だから牛を追いかけて遊んでいる。私はやぎを追わえて行きしなに石につまずいて転んだ。骨接ぎに行く。

大きなボーブラ、九州弁でかぼちゃである。小屋いっぱい買ったのか、たくさんあった。私は一人ぼっちでおはじきして遊んでたこと覚えている。逆になるが鈴田という線路際に掘っ立て小屋作り地べたに畳敷いただけの、横にはドラム缶があって風呂替わりに使用していた。

その線路で男の人が飛び込み自殺したらしい。バラバラになっていたと則ちゃん言ってた。

空襲もだいぶ収まり、元の竹松に戻る。鈴田にいる時に父はアル中で倒れた、2回も。お酒ないころだからメチルアルコールとか飲んだらしいと言ってた。本当にそんなものでも飲みたいのかしら。自分の命捨ててもおかしいものだ。

向かい側に海見える。それから竹松の宮小路へ故郷へ戻る。何だか話がまたも逆になった。おかしい。私は思い出した。鉄ちゃんは自宅とも言うべきの所、福左衛門さんの家にいてた。何だか子供流産したらしい。血をたくさん出して苦しがっているのを見たようにもある。照ちゃん生まれた頃もそこだったのだろうか。わからない。

そこから英あんちゃんが草柳というところに掘っ建て小屋こさえて、そこでそのとなりが家である。鉄ちゃん、英あんちゃんに照ちゃんと三人暮らし。私んちも両親と私。まだ電気がなかったのでランプつける。その時に里美さんの家や近所の百姓家へ草むしりやお手伝いに行く。私は子守に行く。

中学1年、郡中学校へ転校する。私、赤ちゃんの子守していた。赤ちゃんがあまり泣き出すのでお尻ひねる。青あざになったらしい。すぐ辞めさせられた。

草むしり、麦踏みと手伝いに行く。少しの畑では食べるぐらいしかできないから母も畑耕してた覚えある。

父は漬物会社に勤める。配達もするし一緒に漬けたりもする。職長さんだった。そのうちそこの家もまた取り除かれ、次は里美さんっていう人だったか定かでない。竹松の実の父、兄、姉のいるところは近い。10分程歩いて行けるからちょいちょい行く。遅くなっては怒られたことも何度かある。

今度は漬物屋の二階に。今では社宅だろうか。水芋がなっていた。時計の時間教わった覚えもある。良く母から怒られた。その時代はだんだん食事も食料品配給でなく自由に買えるようになった。

店先に沢庵出して出して売っている。その沢庵持ち出しては人に上げる。おいしいので上げたかったのである。それがバレてか家を変わらせられる。済まない事したと思ってた記憶ある。竹里さんという人、百姓もしているのに漬物会社もしている。なかなかやり手である。

鉄ちゃん達は住宅に住んでた。英あんちゃんは自衛隊入門してパスし自衛隊になった。家を追い出されるおり父と母は大村に行き、そこの人は遠い所へ行ったらしい。父に家を売る。買って漬物小売りする。その資金に私一人おいて工面に駆け巡る。高利貸しに借りてやっと大きな樽に二つ、母と一人雇って漬物屋始めて、それも失敗して今度は食料品店にする。

前田さんと天ぷら卸に来る。おばさん近くに住む。太郎さん、南鮮の人、サイさんも朝鮮人だった。でも良い人だった。良く遊びに来た。仲良しになる、親子共に。中学2年頃だった。店先にはりんごやアメ、生菓子と並んでいる。だまって取って食べた事ある。

良く父は卸業に行ってはお酒飲んで帰る。前田夫婦と知り合い良く晩になると遊びに行く。店を仕舞ってから行くので10時過ぎ。幸子さん、一人娘がいた。その子供さん、高校中退したと言っていた。せっかく行けるのにと、私は行きたくても行けなかった。うらやましいと思った。話によればおばさん夫婦で市場してたという。そこが火事になり諏訪に越して来たという。住宅に住んでいた。とっても古い家だと思った。

両親が帰るのが遅くうたた寝してた。帰る頃、起こしてもらい帰る。ブランコに父と一緒に乗って帰った。楽しかった思い出。懐かしい思い出。その父はもういない。

前田のおじさんも酒好きだった。おじさんは辰年、おばさんは鼠年。父は鼠年、母は辰年だった。おじさんと母、父とおばさん、どっちも好きだったらしい。

今思えば家のはす向かいに名前忘れたが、女の子二人いてた。そこも商売敵の店していた。私はぬか漬けのきゅーりとなすがとってもおいしかった。家でも漬けて売った。売れてた。

向かいに鳥山さんと未亡人の人がいてた。女の子が三人いてた。私は良く泊まって帰るし、また遅くなるまで遊んで帰って怒られる。長女の鳥山スミエ、次女の百合子さん、三女はパーマの見習生とか言ってた。おばさんは好きな人できて一緒になる。照ちゃん、三女、長女のスミエさんは年下の連れ子だが前のご主人さんは戦死したと聞いている。

駅員さんだがおとなしくて良い人だった。私の仲良しである。良く水くみに行っては遊んで帰る。怒られる。前の小川で良く大根洗った。丁度その頃に一本杉の歌が流行りだした。春日八郎だった。太郎さんに教わった。冬には囲炉裏炊いて、こたつは入れ物を瀬戸物で作ったこたつだった。いよいよボロ家だから壁は崩れそう。母はしゃべりながら洗濯するから中々はかどらない。

前田さん家と母は仲良しになり、母と前田のおばさんとで豚を飼っていた。えさをやりに行って遅く帰り父はいつも怒ってた。家の裏が小池さん。薄板作りである。その横を借って住んでた。そこに女の若い人、娘さんいてた。胸の病で30もなってるが行けないと言ってた。

家のすぐ横に大工さんしている男の子二人いてた。名前忘れた。すぐ横は道があるのでずらりと住宅ある。そこに朝鮮人がいる。そこのおじさんが酒好きだ。醤油を作るので良く1合、2合と買いに行った。父は酔ってけんかする。怒り上戸で良く噛んだりするから味噌こしで叩いていた。おかしな夫婦と思った。

夏には蚊帳吊って寝る。その頃空き一つある4畳半ぐらい狭い家。3人住むのがやっとくらい。晩寝ると良く金縛り。隣は提灯業で息子さんが作っている。おばさんとふたり暮らし。材木置いてないのに男女二人おって丸太の上で話し声する。泣き声も、すすり泣きだが聞こえたりする。これはみんな幽霊かも、不思議だ。起きて見ようにも怖く起きる勇気ない。

私は中学卒業。中学3年の折、あまり校費納めてない。それで友達と先生来る。鉛筆、帳面くれた。ちょっと行ったら同級生が池田郷というところにおる。遠く山の付近から来る。成山とか山市さんといてた。帰りは四人組で帰ったものだ。背の高い同級生は家が百姓だった。2、3度遊びに行ったこと覚えている。何だかその子のおばさんは私達と遊ぶの好まない。手伝わさせられるから困ったものだ。

その前に店があった。私はあまり池田の方には行かなかった。少し遠いから。その時足をけがし病院にリヤカーで行く。その時長靴なくした。えらい怒られた。学校に行きたくない時は偽病使って行かない時もあった。

私が指をひょうそに侵されて手術した。痛く、痛み止めの薬知らず知らずに痛むたび飲んだらしい。そのうちわからないようになった。夢の中できれいな蓮の葉に乗って母が来て私が行こうと手を差し伸べても届かない。お母さんと言いながらとうとう母は蓮の葉に乗って行ってしまった。そこで目を開けた。見ると近くの植田という病院の人がいてた。話によれば敏子言っておらんでいた。呼び寄せたわけ。私は生き返った。もうすぐ母の手につかまってたら蓮の葉っぱに乗って行くと死んだのだという。もう少しで死ぬところだった。両親は死んで駄目かと思った。中学三年の時だった。

店手伝わされて遅刻になる。母は痛いと言って10時に起きる。ホウ酸飲んだり頭にお灸をすえる。私は学校から帰るとすぐ肩や背中叩かせられる。それ嫌さに遅く帰る。そうするとまた怒られる。朝良くパン買いに行った。米は1升とか買いに行く。ちょっと行くと市場あり肉屋さんあった覚えある。貸本屋さんもあった。そこにしばらく幸子さんが働いていた。

私は朝鮮の人、若い人でちょっとハンサムで自転車に乗っては前通る。あこがれにすぎない。でも話したこともないが前を通るたび胸ときめさせた。アメの商売に卸に来た若い人とも友達になる。

私は中学卒業して友達と一緒に働き口探す。そこにちょうど食堂あったのでそこに働くことにした。おばあさんに孫があった。うどん屋さんである。慣れない仕事で困った。時には酒も出さなくてはいけないから。うぶだから子守もさせられた。自転車に乗せて自宅に向かう途中にひっくり返り子供けがさせてしまう。翌日息子さんは私に謝った。父がひどく怒ってと言って。

そこは辞めて安定所に行き駅前の旅館に働く。そこにいた頃、私は風邪引いてボタンすらかけれない有様だった。二人しかいない小さな旅館だから朝昼晩と決まって食べれない。暇みては食べることになる。年の晩に父が訪れ足袋と写真を。送別会の時だった。裏に記念すべきこと書いてあった。

私は初めてもらった給料で父のシャツを買って自宅へ急いで行きかけに通路ですべり転んだ。自転車共転んだがしばらく起きれずいてたが誰一人起こしてはくれなかった。会社の帰りだろうか。年の暮れだから忙しそうに人が行き来してた。ようやく自転車起こして自宅へと急ぐ。父に持って帰ったら喜ぶだろうと思うとうれしくなり自然と急ぐ。でも両親はいなかった。残念だった。卸業の人が来て催促に来たらしい。私は痛いので寝ていた。そのうち帰るだろうと思った。両親は豆腐を売りに行っているという。待っても帰って来ないので働き場所に戻り、31日に病院に行くが明日は正月だからできない。2日、3日と働いている所で正月迎える。4日に行って診てもらう。別に手当てしてくれなかった。痛むのに何もしてくれないとは。

同じところで働いている人だが花浦トシコという人だった。その人と福岡に行くはずだった。駅で待ち合わせて別れ。でも父は許してくれないのでとうとう行けない始末。またそこ辞めなくてはしょうがなくなり辞めることにした。和利さんに衣服おいてるので頼む。

また安定所に行き探す。今度はちょっと離れた所、30分かかるかしら。食堂に勤める。案外忙しかった。農協の人や澱粉会社の人達来た。私は貧しく自分のパンツ買う金なくはいてなかった。恥ずかしながら男の人びっくりした。わざとはいてないと思ったろうに。本当に恥ずかしいことだ。古い昔話だ。

もらったお金は父にあげる。自分のこづかいさえない始末。これもまた恥ずかしいことだ。働いている所、息子がいた。話によれば竹松にいる時同級生だという。私は忘れてしまっていた。ご主人さんは見えなかった。たまに帰るのかしら。それとも泊まって来るのかしら。そこに働いているお姉さんが帯を1000円で買ってくれという。どうしてもお金欲しいのでといわれ、とうとう1000円で帯買った。もう一人の人はお見合いあるといって大きな鯛を置いてた覚えある。

そこを辞めて今度は家にいた。父の友達の魚屋さんの同業の人を紹介されて子供の守り兼女中さんである。大村で魚屋さんしている。時々売ったりもした。アラを持って帰った。ブリのアラだ。大根と一緒に煮込むとおいしい。子供二人いた。掃除、洗濯と忙しい毎日だった。ある時お金を敷居の所にばらまいたり財布を置きっぱなしにしたりする。拾って差し上げるとあなたの心試したのという。盗むか落ちていたといってくれるか試したという。私はがっくりきて辞めた。

今度は住宅に住むやもめ。クリーニングをしていたらしい。女の子の守りしてくれという。私はそこで働くため行くとクリーニングは別の所で一緒にさせてもらうのでそこに行くのだといって連れて行ってもらう。そこで二階に借り住まい。子供の守りだけと思ったら、そこの炊事までさせられる。お乳こさえ飲ましたりおむつ替えたり忙しい。毎日でも私には負担だった。いつだったか、食油買って来てくれといわれ買いに行き、そこにちょうどクリーニングの店主の小学生の娘来たので、赤ちゃんおんぶさせて油持って帰ってといって、辞めて帰る。私にはどうも主婦代わりできそうにもないし、店主の女中代わりまでさせられるので嫌気さしてしまった。

次に裏に小池さんがいる。そことはとっても親しくしている。私も良く行く。母も良く行っては話が長いので、遅く帰っては父が怒る。店ほったらかして話し込むいって怒っている。前にセンダンの大きな木がある。男の子がいた。小学5年生だった。女の子もいたと思う。その男の子はとってもいけずで私のこと、木に登ってもらい子と二、三回どなっては降りて帰る。鳥山さんのすごく大きなセンダンの木。縁側に座って夕涼みしたら涼しい。私は良くそこに遊びに行きままごと。ひもや枕持ち出し、赤ちゃんといって枕をおんぶしたり着せ替えしたりお医者さんごっこしたり、お母さんといってさなえちゃんと三女の子がする。本当に楽しかった。もう二度と来ない楽しい思い出だ。

小池さんの知り合いに長崎の再会というバーがある。そこに世話してもらい働くことになった。そこに親戚の女の子がいた。その子は炊事をしてた。私は店先に立たされ客引きしないといけないし、お客にお酒飲ませられた。ある時は船員さんが来る。ある時若い人がしている真珠のネックレスが欲しくていけなかった。おくれと言うと体迫る。そうするとあげると言う。それならいらないと断るとぷりぷりとして帰って行く。

遅くまである。9時より大方1時近くある。私は酒飲めなかった。それで良く怒られた。裏がちゃんぽん屋だった。台湾人がしていた。そこのはとっても具が多くおいしかった。どのくらい働いたのだろうか。昼間は家にいるが、掃除してちゃんとして帰るとやっぱり家に着く頃は2時になるのだ。そのかわり朝は9時に起きる。お昼と一緒なのだ。

そこに私の一つ上で今で言う数え年18才。男の子は竹下正人といって、長男で一人息子で大学受験で勉強していた。胸わずらっていたので弱い体の持ち主。私は良く掃除に行く。いつか私と正人さんとはお互いに愛し合う間柄になった。二人は結ばれる。結婚するつもりでいてた。私の初恋ともいうべき恋人だが相手は長男だし私も一人娘でどうすることもできない。そこのお母さんから辞めて帰ってくれと言われ、丁度辞めようと思ってたところだったのですぐ辞めて大村の実家へ帰る。

今度は遊んでいてはいけないからといって小池さんに頼む。今度は小浜という温泉旅館に働きに行く。大きな旅館だった。下働きで2人いた。仲良しになる。洗濯はたらいでシーツ10枚ある。下着なんかするが、その時は3人でやる。手が痛む。すぐ後ろ側に塩田があり良く湯気が立っていた。遊びに来て良く話を3人でする。その時は何かガラスの、梅干しなんかを漬けたりする入れ物で口を打って2、3本の歯が欠けた。放っといたらとうとう虫くれになり痛くてしようがなかった。

風呂に入ってから風呂掃除するので体ほかほかする。建て増しするため大工さん二人来てしていた。良くお茶なんか持って行かせられる。私が一番若いのだ。みんな27、28才ぐらいの女の人ばかりで可愛がられる。ある時下女中で友達の女中さんカステラ作って食べさせてもらった。いつまでも下女中でいてねと言ってくれる。

ある時、そこの女将さんがちょっとおいでと言うので何事かと思い行くと二階に着物着せられて客間に連れて行かれる。びっくりして断ったが、もしできたら上女中にすると言う。仕方ないのでお酌する。初めてなので手が震えた。急いで下りて来て炊事場に行くと女中さん、下働きの仲間の人、塩田の職人の人が上女中になるとあばずれになる、うぶさがなくなるからと言う。それで上女中にならないずくめだった。

ある時に名前忘れたが、姉さん株の28才ぐらいの人が私に弟を紹介する、その弟となってくれと言う。百姓で今お嫁さん探しているという。そこで両親に許可受けに帰るが反対する。父は手紙を書いて渡す。一日おって戻る。

途中、急に長崎に立ち寄る。昔遊郭があった所、今はもう何十年も前に廃止になっている。そこにいた。2階の部屋だった。入学したのか部屋は暗かった。あきらめて小浜の旅館に戻る。あきらめてくれたが仕方ない。

何日か経って正人さんの友達といって手紙ことずかったといって持ってくる。読んだら懐かしい。すぐ会いたいと思っても行けない。二、三日して長崎に行く。記憶に私帰るのか汽車の中で両手で汽車の空をはさむ形で?(字が読めません)。どうりであなたはウェットだと言う。その時初めて知ったのである。ドライはやんちゃでウェットはおとなしいし優しいという。別れして私はとうとう自宅へ帰ってしまった。

今度は則ちゃんから家を作ったので来て欲しいと手紙あり、行く。ぼてっとした山があって拘置所がある。そこの所であるという。私は行くが、なかなかわからず迷った挙句たどり着く。則ちゃん夫婦に裕二君、義夫君と二人いる。私は急に正人君に会いたくて丸山まで行く。丹心橋を歩いていると外人さんに声かけられ写真取らしてくれという。私は怖くなり走って行き正人君の部屋下まで来るが暗いので戸惑い戻る。10日程則ちゃん家にいて大村に帰る。どこにも働きに行かず家にいた。

島原から来たという中村さん。その時はあまり良い家とは言えないけど二階建てで、下では豆腐を作り上が住まいになっていた。その時豆腐売ってみたらという。一丁12円、厚揚げ一丁15円、薄揚げ一枚7円と2円の賃だが働きに行くより行商の方が良いと思い売りに行く。竹松まで行く時ある。桜馬場、乾馬場とあっちこっちと売りに歩く。

自転車は鳥山さんの家の借りる。初めは子供の自転車でけいこ。慣れたら大きなのに変わる。時には風呂屋のそばのドブ川にどばしこんで足をけがした。1回借りて10円、3回借りて30円。30円かけてとうとう乗ることできた。それ以来毎日乗る。

竹松の百姓家に寄り買ってくれた。お昼のおかずにと思い買うのだろう。生父と和利さんのいる所に寄っては遊んで帰る。一日100円程度の賃金だった。住宅街で売っても、近くに豆腐屋さんありそこの娘さんが売って歩くのであまり売れない。

ある時、帰ると母から叱られる。どうしてかと聞くと男の人に色目使ったと噂になっているという。何も色目なんか使ったことないのに、どうするかも知らないのにひどい事言う人もあるものだ。男の人といっても住宅の人で顔見知りにすぎない。ただ話しただけなのにショック受けて豆腐売り辞めることにした。

今度は寿司屋へ行く。安定所へ足を運びやっと働き口を見つけることできた。江戸寿司である。そこで一ヶ月ほどで奥さんの邪推。旦那さんと話しただけでも焼きもち焼く。そこの旦那さんが私に優しくしてくれると奥さんは焼きもち焼いて私を怒る。また思わしくなく辞める。記憶には買い物遅くても怒る。手で叩くと痛いといってマキで叩かれたこともある。昔はハガマで炊いていたが、米を何合炊くか聞かないとか良く怒られた。冷たい川水で大根や野菜洗う。手はしもやけだらけである。またちょっとしたことでも怒られる。またお父さんともけんかしていた。

鳥山さんは見るに見かねて、としちゃんは早く結婚した方が良いよと言ってくれた事覚えている。店はだんだん思わしくなく借金増え、駅に勤めていたという人が父の友人でその人より借金したらしい。近くに住んでいた若い奥さん、3才になる男の子もいた。またも女性は私に焼きもち焼く。男女といっても母と一緒なのにひ弱な40そこそこの男の人。どうも胸病んで退職したらしい。良く店をしてたので来る。

また清川さんという私の同級生の女の子の兄さんという。私はあまり親しい事ないが、警察しているので良く鳥山さん家へ来る。私の家には生菓子売っているので来てはタダ食いして帰る。嫌いなタイプ、痩せ型で背の高い人だった。

あるときには、卒業してまもなく友達の家で遊びすぎて泊まったことある。遅いので泊まって帰りと親切に言うから、帰りに女の子一人歩きは危ないと思い泊まることにして友達と話してたら急に母の声がする。びっくりして起きる。今すぐ帰ろうと怒る。女の子が泊まって悪いことだといっておらびながら歩く。耳は痛いし近所あるのに恥ずかしい。その翌日に清川さんに会い、聞こえたという。あんなにも怒らなくても良いのにと言ってくれる。

その友達と一緒に職探しして食堂見つけたのである。生まれて最初に勤める食堂。うどん、定食と作っては出す。二人いる。良く働いた。またそこのおやじさんがスケベだから弱る。もう70も過ぎた孫を抱いて良くどこか遊びに行く。子供を自転車にさえ乗せなければ、けがさえさせなければずっと勤めてたかもしれないと思う。懐かしい思い出だ。

広い家ならそんなのこともないけど、親子三人暮らすのがやっとで狭い部屋である。父は初荷、正月2日市場に行く。帰って来た時はだいぶ酔っている。母とけんかする。私が寝ると横に来て名前を呼ぶ。本当に父は可愛がってくれた。

中学3年のおりも台風で弱っていたら父が迎えに来た。父が自転車を運転して私は後ろにしがみついてかっぱ着て帰る記憶ある。ふいと思いだしたが、4月頃、どこの店に勤めていた頃だろう。花見時である。私達も大村城に花見に行く。その時、長崎の前働いた再会というバーの女将さんが私にうちの息子を誘惑しないで欲しい、交際一切しないでくれと言う。私はもう会ってませんからご安心をと言うと、それだったら良いけどお願いねと言って場所に戻る。あんなに言わなければ、あんな大勢いる場所で。何だか腹立ち覚えた。これも若い頃の18才の娘の思い出だ。

長崎から大阪へ


とうとう店も左前になる。父も苦しそうだった。その時母は澄ちゃんと話ができていたのか知らなかった。母は澄ちゃんは優しくてそう怒らないから、そこに行った方が幸福だ。大阪の澄ちゃん家へ行けという。突然の出来事だった。

とうとう行くことになった。母が連れて行く。大阪に着くと澄ちゃん待ってくれた。それから甲子園球場があるところだった。尼崎に着く。2階に間借りしていた。そこで一晩泊まり宝塚にも行った覚えある。今度は天下茶屋、松虫、阿部野橋と行って勤め先に着く。阿倍野である。弟さんがメリヤス工場している。そこの横に女の人四、五人いた。掛かっている看板見ると、やとなクラブ 仲居さんと書いてある。母はと思うとむつみのおかみさんはぽちゃぽちゃした良く肥えて背の低い人だった。旦那はちょっとしたハンサム、眼鏡をかけた背の高い人だ。

そこには子供も孫もいないのか弟さんがすぐそばにいたらしい。でも奥さん病気で死んだという。男の子二人いた。中学生、小学校1年が二人いた。アルミニュームの会社に勤める人だ。私達がおる所より出入りするようになっていた。私は良く遊びに行く。また女中さんがいる。千代さん。仲間にも千代さん、マリエ、背の高い綺麗な人がいた。忘れたが男の人に良く連れて行ってもらうらしい。良く温泉の名前言ってたから。私は一度も連れて行ってもらったことない。電話かかりどこそこにと座敷がかかったら着物着て行かなければいけない。そこに着いたらお酌もしなければ御膳下げたりしないといけない。私は弱った。

京都にも座敷で行く。嵐山と行ったことある。昼間はお稽古。踊り、民謡、三味線と覚えなければいけない。厳しいお師匠さんだった。バチを扇子を間違うと投げる。なかなか覚え悪くて困る。10月頃は松茸狩りで松茸のすき焼きである。一番のかき入れ時である。4月は花見で忙しい。その時座敷に行く。タクシーで行き財布と足袋入れたバッグ忘れて難儀した覚えある。そこでしばらく働く。前は岩おこし屋。良く買って食べさしてもらう。たこ焼きも。自分は金なくおごってもらう。

ある時織物問屋の人達の集いでお座敷呼ばれて宴会する。その時に知りあう。浅野親房さんと。私より一つ年上である。私は18、その人は19才。本当に若い二人だった。浅野さん好きだった。座敷じゃないと逢えないので私が電話して逢ってもらう。その時食堂でカレーライス二人で食べた。二、三回逢引する。2、3日して呼ばれて行くと浅野さんを預っている親戚という。その会社で自殺したとか心中したとかいって大切な甥っ子預っているので逢うの止めてくれという。私はしがないやとなクラブなのだ。諦めます、絶対に逢いませんと言って別れる。悲しかった。なぜ好きな人と成りたい思っても断られるし結婚できなかった。戻り2階の所にベランダがある。そこでわんわん泣いた。翌日逢って言ったら、同僚の恋人が自殺したらしい。それでまたやるんじゃないかと思って断ったのだという。本当に情けないけど諦めた。


酒は涙か溜息かという歌を歌った覚えある。中之島公園での逢引である。池には船が置いてある。私と浅野さんとで話してる時ちょうど虫が来た。どうしてかわからないがその虫を殺してしまった。自分ながらびっくりしたり呆れる。その時浅野さん、今でも忘れない。酷いことする、そんな事する人は嫌いと言った。それから電話しても出ない。逢ってくれない。翌日電話で9時に逢う約束したが、ちょうど座敷かかり澄ちゃんと一緒に座敷行く。帰りに寄ってみるといなかった。時間も遅いから帰ったんだろう。仕方ない。中之島公園での逢引も駄目になり、それ以来おじゃん。

むつみ席と看板に書かれてあった。最初はわからなかった。姉さん株はマチ子。私はマリ子。三河から来た人もいた。京都から勝江さん、大柄な人、みどりさんと姉妹で来てる人いる。良くパーマかけに連れて行ってもらう。昔はピンカールで巻いて電気でこさえたものかける。ちりちりとかかる。ある時近所にお好み焼き、たこ焼きとあるので姉さん株の人から連れられて夕ごはんごちそうになった覚えある。

毎日が辛かった。早くこの水商売から足を洗いたいと思うが、ここに来た時に母は5万円前借りある。母がお金を数えているところ見た。母は富子のお陰といって大村に帰って行った。それで借金みんな払ってしまわないと辞めることできない。

わんちゃんには肉を良く食べさせてた。良く散歩に連れて行った。大きな犬で、引っ張るのでなかなか大変だった。そこにメス犬が現れてつるんでいた。離そうにも離れない。弱ってしまった。仕方ないので引っ張って連れて帰った。そのうちやとなクラブは金持ちになったのかしら。

ひとつの座敷に出れば1200円。1時間でも計算する。私はブスであまり多い方でない。踊りは上手でないから行ったら女中さんみたいに手伝わさせられるから。

帝塚山、住吉、良く澄ちゃんと住吉神社に行った。心斎橋の付近にも連れて行かれた。でも大分知らない所多い。ある時家の改造する。2階をこさえたのか知らないが、立ち祝いに、私は出ないが、他の2、3人出たようだ。大工さん、左官さん、2人来ていた。


そこに竹ちゃんと呼んでいた覚えある。2、3回逢って話す。兄さんが歯ブラシを作る工場持っているといってた。私はその人と新しくなる、結婚してもいいと思い始めた。ひとつは早く辞めたい一心もある。手紙で2、3回出したりもらったり。赤鉛筆で書いてくる。友達は絶好の印と冷やかす。

真夏だった。日傘さしてる覚えある。その人に逢いに家まで行く事になった。星が付いた町の名覚えている。でもわからずじまいで帰ってしまった。それが誤解のもとであった。次は名前忘れた。男の人で竹ちゃんの友達でタバコあげる。私は吸わないからあげただけ。竹ちゃんの代わりに来たという。その人一緒にならなかった。あまり逢う機会ないから。

そのうち澄ちゃんが親しい人なのか知らない。むつみ席辞めて澄ちゃんと別の所に行く。借金あるため残あまりなかったらしい。着物、帯1時間200円取られる。200円で実には1時間1000円利益です。良くお茶引く。稼ぎ悪いし小遣いなしになった。100円借りてローマの休日や君の名は、佐田啓二岸恵子、ヘップバーン主演である。1部、2部と見に行った。行く度借金増える。良く澄ちゃんは大村の母の所へ着物とか2000円毎月送ってたらしい。知らぬのが私である。ますます借金増える。

変わった 所 はえらい狭く汚い所だった。そこでは着物は200円だが1時間1400円だった。どうなって借金返したのかわからない。大きな肥えた女の人いた。私は踊りの練習する。夏の踊りで踊るため。浴衣も藤山流とか柳流と稽古する。ここは短かったのであまり覚えない。正月にはみんなですき焼き食べる。一番の楽しい思い出。夏の踊りで桜の花と祗園小唄と踊ることになった。浴衣は花柳流の紋入りとこさえる日が決まってた。でも大村に帰って行くので中止になる。

ある時澄ちゃんと岩田さんという人がいた。澄ちゃんの愛人だろう。座敷に一緒に呼ばれて行った折、マリちゃんは田舎へ帰った方が良い。大阪にいるとすれからしになるから今のうちに帰りなさいと言われたので私は帰りたくなり帰る。

長崎へ戻る


別に秦さんというご主人が天下茶屋にいた。狭いアパート、ぼろい家だった。秦さんが炊事して待ってくれる。本当に上手だった。小アジを油で焼いて酢を付けて食べる。おいしかった。2階に住んでる。狭い部屋だから窮屈だった。ある時焼き餅焼いて包丁を布団の下に隠し持っていた。怖くなり私は2日程世話になって住み込みにした。それからまもなく大村に帰る。

その時は昭和29年、19才の夏だった。白いワンピースの上にボレロ着る。既成品は買わず、みんな布買ってこさえてもらう。丁度良い紺のワンピースもこさえた。とうとう大村に帰って来た。嬉しかった。父はとっても喜んでくれた。やっぱり富子は父ちゃんが思っている通り純白の服着て帰ったと。どんな服着て帰るのかと心に思ってたらしい。派手な格好して帰らなければ良いがとも思ったらしい。でも白服着て帰ったことがとっても嬉しかったらしい。これからゆっくりしたらいいと言った。

食事の時には三人囲んで食べる。私は良くみそ汁をかけて食べる。そのうち眠くなってうとうとする。私は職もなく家でごろごろしてたら母と父けんかしてこっちにとばっちり受ける。母は父があまり可愛がるので邪推して家を出て行けと言って私の衣類投げ出した。それで鉄ちゃんの家に行く。一晩泊り朝帰ったり。歩いて行けるから怒られたら鉄ちゃん家に良く行く。竹松にも行く。帰ったらまた怒る。良く怒られる。

ある時にどこにいたのか知らないが父は倒れ寝込んでしまった。時あんちゃんに松原に飲みに行った先の人、嫁さんもらったという。私は父を見舞いに行く。茶碗はごみ入って汚い。布団はびしょびしょでしっこ臭かった。お金100円あげると大事そうに直していた。痛風と言って麻痺して動けない。かわいそうに馬場さんも来ていた。私行った時お昼になりごはん食べさせてくれない。見かねて和利さんが大皿に盛って食べさせてくれる。それを嫁さんは怒る。それで食べて我が家へ帰る。それから何ヶ月くらい経ったのだろうか。私はどこに勤めていたろう。父は怒る。働く気持ちが無いといって怒る。悲しかった。もっと悲しいのは養女、自分の子ではないから怒りたくても怒れないといった言葉。耳ににじんだ。今でも良く覚えている。


大村に帰って2ヶ月程して人の紹介で島原の温泉旅館で働く。しばらく働いているうちに父の危篤知り帰る。私は今でも忘れない。両親の縁切るといった。英あんちゃんの口利きでようやく辞めることになった。急いで大村に帰り竹松に行く。でも死んでいたので翌日葬式する。昭和29年、私19才の時だった。

英あんちゃん、時あんちゃんは私の義理の兄だと聞かされて嬉しいような複雑な気もする。初めて兄から聞き驚く。私はずっと親戚の人とばかり思ってたから不思議なことだった。兄は先妻の子で私は後妻の子だという。近所の人手伝いに来ていた。胡麻豆腐が美味しかった。大きな樽にお父さんを入れる。座った形でさぞ苦しかったろう。お父さん成仏してくださいねと心の中で言った。私は育ててもらってないが、もう死んでしまった。和利さんこれからどうするのだろう。一人ぼっちになる。

葬式終わり大村に帰る。私は確か島原の旅館へは行かなかった。辞めたような気がする。ずっと店の手伝いする。父はお陰で仕送りで借金を払ってしまったとも言ってた。良かったと思う。お金もらっても私の小遣い1銭も持ってなかった。一、二、三と食堂で働いていた頃自衛だという青年と知り合い同棲しようという。一度長崎にいる姉に逢ってくれという。とうとう約束果たせなかった。同棲もしなかった。

ある時映画見に行くと映画館の中に売店がある。その子供、娘さんと親しく話してたから2、3回会ったらそのままになった。これも失恋である。太郎さんから逢って欲しいというから逢ったのに話しだけ。僕がこんな体じゃないと結婚したいといった覚えある。早く良い人と結婚して欲しいという。悲しそうだった。せむし病である。ビタミンC不足でなるらしいと聞いた。もう後は記憶なし。


昭和30年私は20才になる。やはり店の手伝いしていた。母は神経痛で10時まで寝ていた。弱い母だったが父は元気であまり病気したことない。大きな自転車で配達する。早1年経った。昭和31年私21才数え年。大村諏訪にいてるんだが選挙受けに行ったこともある。

小さな芝居小屋あるが、そこに良く来る。ある時中村家は豆腐屋さんしてるが、そこで遊んでいる時役者さん見えてタバコあげた覚えもある。ちょっと離れた所にも時々芝居来る。そこで女の人が男の人の大切なものをちょん切る所だった覚えある。

そこに同級生のヤクザに入っている清さんが来ていた。私はまた見たいと思い銀貨持って見に行く。友達と少し話して芝居小屋の中の?を見た。あまりええとこでないと思った。それ以来行かなかった。

早1年経った。昭和31年21才になる。その年に修学旅行で長崎に来たのだといって私家に来る。一晩泊まり、その時私の話をしたんだろう。それから1年経って写真送る。どんどん進んでとうとう見合いになった。私は同級生の仲間で葉山さんの服とスカート借りて着て写真撮り送った。良く肥えてたと思う。

昭和32年4月25日頃と思う。則夫さんと父が来る。私が22才で則夫さん28才である。映画見に二人で行く。楽しいはずが座る時は私前、則夫さん後ろで見ている。一緒に来たのだから一緒に座ったら良いのにと思って見る。帰りも黙っている二人。口をぽかんと開けて歩くのでそれが嫌だった。でも私には両親に5才から育ててもらっている恩があるので断り切れず承知する。また父はSのK生まれだから富子が則ちゃんと一緒になったら父の故郷Kに帰ることできるからという。断るわけにいかない。お金も6万円借りているし、もし結婚したらお金お父さんに返さなくて済むからと思い承知する。

昭和32年4月26日頃で私22才である。とうとう大村を離れることになる。私の心はSというところどんなところだろうと思うと一人だし不安と淋しさ募る。

結婚へ


いよいよ大村離れることになる。駅前で前田さんのおばさん、幸子さん、和利さんと3人で母も父も一緒に写真撮る。記念写真である。汽車に乗る時に前田のおばさんから餞別200円もらう。いよいよ汽車の中、小倉まで汽車で今度は船に乗り換えて門司まで行く。話し飛んでいるかもしれないが、下関で船に乗り換えする。

港に着く。下船して温泉に行き風呂に入る。後、動物園に行く。ちょうどお猿さんがいたので手を出すとキキーと鳴いて、私のトッパの袖は血が付いた。未だにどうなってるか、そのトッパなくなっている。私はちょっと手をかすられたので血が出たのだ。余計なことさえしなければこんなことにならないのにと思う。本当に馬鹿だ。

どのくらい見たのかしら。Kまでバスで行く。山の中で下を見下ろすと谷底。怖くて仕方なかった。ガタガタ道で本当に生きた心地しなかった。Kに着き乗り換えて、今度はO行きに乗りNで下りる。山の中に家がある。びっくりした。

帰りたくてもお金ない。どうしようかと思ってるうち、時間は経つばかり。食事済んで風呂に入り休む。最初私一人寝てたのに無理に母が則ちゃん、私と寝せる。知らぬ間に横に来ていた。あんまりだと思った。秀夫さん、両親と則夫さん、話し声がする。則夫さんが僕嫌だといって泣いていた。私には泣き声がした。飛び起きて帰ろうか。私には前田さんからもらった200円しかない。どうすることもできない。私帰ったら借金は払わないといけないし、また故郷に帰りたがってたのに故郷には帰れない。仕方ない。あきらめようと心に決める。その日は昭和32年4月28日だった。22才数え年、今の年で言うなら後5ヶ月すると22才になる。則夫さん数え年28才。その晩は無理やり一緒に寝かされる。

29日の朝である。朝起きると明日二人の結婚式をあげるという。びっくりするやら驚くやら。まさかこんな早くするとは夢にも思わなかった。


Nの家で挙げる。料理は矢島さん。長女の姉の婿さんである。なかなか上手である。ちょうど結婚式は雨降りだった。悲しいのか、丸で私の涙のような気がする。親戚多く来る。祝に駆けつけてくる。無事に終わり、離れの蚕部屋の隣が畳敷いているので二人はそこで初夜迎えることになる。理想通りには行かないものだ。私は常にできたら式はおごそかにして新婚旅行は遠い所に行きたいと思ったものだ。夢破れとうとうどこも連れて行ってくれない。指輪もくれなかった。こんなことあるだろうか。仕方ない。則夫さんがみんな出したそうである。山も二つ持っているという。その点若いのにえらいと思った。でもこれとは別である。本当に残念に思う。それ以来二人の旅は一度もしたことがない、今でもケチだから。

離れに住んで1日過ぎた。私は畑の手伝いする傍ら待つ。忘れないようにと写真見る、不安だから。畑耕し食事支度と忙しい毎日。則夫さんはしばらく仕事休んでいたが、復職できたので家見付けに行って来るとOに行く。2日程経って迎えに来る。小型自動トラック、二人だけのだから、1台で済んだ。布団上下と吸い物茶碗、お母さんからもらう。茶碗2ツ、机とただそれだけである。早速荷物積んでUへ行く。西山さんの2階借りて住む。4畳半と3畳の間あるだけの狭い家。西山さんは昔、旅館か料理屋してたらしい。おばさん一人だった。家主さんは優しい人だった。そこの前の人と親しくなった。Uでは良く平凡を買って読む。お酒やビール飲まないので良くポートワイン飲んだ、二人共に。


夫はタバコもお酒も飲まない人だから誕生日にはポートワインを二人で飲む。丸い飯台で食べる。新婚旅行に行かなかったのでMに行こうといって、その時はU線が通ってたからそれでMに行く。その時代にデパートあったのかしら。忘れたが確か三越に行ったようである。ガスコンロはなかったので石油コンロ買って帰る。どういう訳か迷子になり離れてしまう。お金は持ってないし初めてのMでどうしようかと半べそかき探しまわる。バスの所に行って待ってたら来た。

その時代32年8月、蒸し暑い夏が来る。良くにわか雨降る時だ。ある時3畳の間で昼寝していた。窓開けっ放し。急に女の人の声がしてびっくりして目が覚める。おばさんはカンカンに怒ってた。雨が降っているのに窓開けて畳濡れるといって怒っている。申し訳ありませんと謝る。

良く篠崎さんという人が遊びに来た。製材所に勤めている若い人である。隣は女工さんが住んでいる。その娘さんが好きらしい。三人で自転車でドライブした。ダムができる途中だ。見物に行く。昼は三人で食堂で食べる。楽しい一日だった。5時頃帰り炊事する。

ある時魚屋さんで鯖買い刺身してもらい、調理している男の人は包帯していた。もしやと思いチラッとよぎったが案の定夫は1皿の刺身一人で平らげてしまう。私はほんの少しだけ食べたのでどうもなかったが、夫は急におなか壊して先生呼ぶ。食中毒らしい。すぐ治って良かった。それ以来鯖の刺身は買わない。

夏だから夜店ある。見物に行く。店にスカート布地売っていた。それが欲しく買ってくれとせがむと怒られる。ビンタ張り飛ばされた。欲しいので買ってくれと言っただけなのに。泣きながら池の方に走って行きそこで思い切り泣いた。後すっきりして戻ると探したんだぞといってまた怒られる。困ったものだという。


相変わらず夕方になると篠崎さん、女工さんが遊びに来る。話弾み9時頃帰って行く。帰った後休む。真夏の8月になった。良く海に泳ぎに行くのか川に行くのか、大きな川があったと思う。今でも思い出す。後ろに小学5年生ぐらいの女の子がいる。私と仲良しになる。おばさん、女の子と私とで良く風呂に入りに行く。1人前13円だった。女の子は良くあくびしていた。おばさんは死ぬ前だと言ってたが私は上の空に聞いていた。

ちょうど私が昼寝している時、その女の子が泳ぎに行こうと誘う。水着持ってないので行けないし、行っても暑いからと思い友達と行っておいでというとすぐ行った。それからどのくらい経っただろう。急にざわめき、ふいと下を見ると溺れ死んだという。水を吐かせたが助からなかったと言ってた。びっくりして行く。お母さんには初めて会うが、お礼言われ恐縮する。私が着いて行ってあげたら良かったと思う。残念に思った。取り返しつかないことしてしまったような気持ちしたが、何も私が悪いわけではないのですとお母さんはいった。葬式に焼香に行った。本当に可愛い子だった。

ある時おばさんが留守するという。どこか行くのだろう。おばさんは町内で草むしりしないといけないので代わりにして欲しい、鶏にえさもやって欲しいという。私は頼まれた通りにする。卵産み1個だけもらおうと思い、黙って皿も借りて使う。帰ってからお礼にといって卵2個もらったが、急に怒ったのかここを出てくれという。忘れていたが西山さんのおばさんの妹さんという人と娘さん来て一緒に食事する。農協に勤めているという娘さん、以前下宿してた頃に好きだったらしい。夫の初恋の人だという。私は複雑な気持ちする。


ここを出てくれと言われ家探しである。ちょうど見つかったからというので替わる。今度は桂長屋である。ボロい家だった。家賃1200円である。安いので良い。6畳間1間あるだけ。空が見えるくらい壊れかかっているみたい。隣は朝鮮の人が住む。真ん中が私宅、隣は佐伯さんという。その前に農家の人住む。良く子供が遊びに来る。朝鮮の人の子供、中学生の女の子、男の子もいるし20才ぐらいの男の子、結婚している男の人。

私は替わってどのくらい経ったのか、急におなか痛むので近くの病院に行く。先生往診に行って留守だった。しばらく待って欲しいという。椅子に座っていてもじっとしていられないくらい痛む。診察の結果盲腸炎という。すぐ手術する。目だけ隠してするので聞こえる。局部麻酔してするから。注射切れて痛むので言うとしてくれる。しばらくすると眠くなる。睡眠注射だった。良く近所の子供が学校帰りに来てくれた。付き添いに父が来る。夫呼んだのだろうと思う。2、3日おって帰る。本当にありがたいことだと思う。1週間で退院する。

12月の年の暮れである。夫は実家へ帰る。昭和33年1月1日正月迎える。私一人だから何もしないでいると佐伯さんが持って来てくれた。嬉しかった。おいしかった。夫は4日に帰って来る。夫29才、私23才の年である。

こーちゃんという人が遊びに来た。私とも親しくなる。夫も知っている。ある時隣に遊びに行く。旧正月だといってごちそうに呼ばれたのだ。孝ちゃんという中学生の女の子と仲良しである。それもあって食べに行く。楽しい1つの思いでだった。今でも忘れないのだ。

節分の日大豆いって年の数だけチリ紙に包んで十字路に持って行って置くという。それで私もする。4月におばさんに連れて行ってもらいわらび、ぜんまい取りに行く。初めて教わった。ゆで方も教わる。近くの山へワラビ採りに行く。早速ゆでる。良くおばさんは赤ちゃん生まれたら付き添ってあげる、家で産みなさいと言ってくれる。