母心

愛媛県立中央病院入院中の1991年に54才で亡くなった母の日記です。

1990年6月20日

6時起床。6時30分体温。時夫君水枕取り替えて帰る。また戻って来たのでどうしたのと聞くとスリッパ履いて帰りよったと来る。靴に履き替えて帰る。6時30分〜8時まで休む。7時35分朝食中止。朝日記付けちょっとしんどいので休む。また起きて付ける。8時起きて洗面、トイレ。9時30分シーツ換え。

処置は午後からあるという。今日は手術あるために遅い。看護婦さん蒸しタオル持って来る。体拭く。パンツとパジャマ着替える。今日はずっと闘病記録兼日記付ける。11時35分食事時間、中止。豆乳1缶出る。ストローで飲む。飲めても大分吐く。前より喉を通さない。困ったものよ。胃に入るのは少なくて出るのが多いのでおなかが空く一方。早く飲めるようがんばらなくては。がんばろう。そのうち食べれるようになるだろう。じっくり腰をすえて胃と喉を慣らしていかないといけないと私は思う。またも命助けてもらったんだから辛抱してがんばろう。忍耐力。

今日は早く1時前に美智子来る。夫来ないのでどうしたのかと思うと2時に飛行場へ着くので迎えに行くという。びっくりした。今週中25日に帰るというので後5日後じゃと思い指数えてたのに夫は全然言ってくれないし時夫は25日に帰るとしか言わなかったからびっくりするやら嬉しいやら。待ち遠しい。早く来ないかなあと思う。2時の検温時間に処置はまだと聞くともう少し待ってと言う。行った後放送あり。私は最後に診てもらおうと思いしばらくして行くと三人いる。美智子着いて来てくれた。危ない足取り。

2時に処置終わり戻りしばらくして点滴。体温36.5度。3時20分久と夫来る。元気そうなので安心した。鼻の手術はすごく痛かったと言ってた。骨を削るらしい。鼻の穴狭くなり何だか通り悪いし息もやはりしにくいという。もう少し経って佐藤先生に頼んでみよう。これでは可哀想である。できるものなら完全に治してあげたいと思う。久はもう嫌だ。また削られると嫌だからという。でも鼻は麻酔しないのかしら。

今日は飛行場より着いたばかりだからしんどいので家でくつろいだら良いと思い一緒にまた美智子連れてきたらいいといって帰したがたった10分ほどおって夜勤だから早く帰らないと明日また来るからコーラスとかカルピス買って来るといって帰って行く。来る度せわしく戻る人。もっと沢山話しもあるし一緒にいたいのに仕方ないことかしら。入院してると自由効かないので嫌なのである。今までじっくり構えて1ヶ月も2ヶ月もと先生が退院許す限りおろうと思ったが、久の顔見たらまた夫に言われてそそくさと帰って行く後ろ姿見たら良くなる途中でも良い。早めに退院さして欲しいと言いたくなる。

5時35分食事時間、中止。今日は持って来ないのだろうか。もし持って来たら時夫君に飲ませてあげようか。豆乳はカロリーメイトと同じおいしさである。家庭では高くて手に入らないだろう。病院だけ置いているのかしら。退院したら豆乳を買って飲もう。カロリーも高いし売店の豆乳よりもおいしい。みんな飲める飲み物である。

夫よりお菓子買って来てもらったので持って行こう。時間を気にしてチャンス狙っているのである。これから休むことにする。少ししんどくなった。6時お菓子ようやく看護婦さんに渡す。これで安心である。

今日も高須賀先生であった。しきりに母のこと言ってた。忙しくて来ないのだろうというので来ないといっただけ。声も出ないし。1度目は電話かけても相手がもしもし言っても黙って話ができない。でも夫が美智子に代わりどうやら用事済ませたがわかったのか不明。

お礼のつもりで持って行っても声がでないのでわざわざ字の下手なのに書かないと伝えられない。心のなかは悲しく情けない思いでいっぱいである。誰一人知る人なしである。今日は注射に来てくれるかしら心配。8時35分時夫君も来るかしら。

8時35分体温。40分ごろ時夫君来てくれるだろう。もし帰ると言ったら帰してあげよう。久しぶりの対面である。兄と弟の話もあるだろう。またゆっくり休みたいやろ。一応聞いてみよう。帰るというなら帰してあげるつもり。淋しいけど心細いけどこれも仕方ないことか。

夫は5万円本当に持って来てくれた。あてにならないのでどうだろうなと思いつつでも本当に持って来てくれる。時夫君へ1万円。美智子へ1万円。化粧品代2万円。服代として私に1万円。でも化粧品代いるといけないので1万円置いとく。

9時30分消灯時間。