母心

愛媛県立中央病院入院中の1991年に54才で亡くなった母の日記です。

1990年10月9日

6時起床。歯磨き、洗いやけ済まし流動食支度。久君食事済まし勤務する。夫休みである。7時食事済まし7時30分する。後始末、洗いやけ。9時洗濯。時夫起きて来てする。私病院行く支度する。10時30分時夫君に連れて行ってもらう。美智子は父ちゃんと行くらしい。

10時59分着いてカード再診袋入れ出す。エレベーターにて行く。2階の耳鼻科にて待つ。大分今日は多い。待つの大変だ。待合室へ着き約1時間近く待ってようやく名前呼ばれ行く。佐藤先生に書いた物と喉の切口渡す。喉のところをして少し痛かったがこらえるより仕方ない。おなかのところは診なかった。薬出しとくからといって立ちくらみは貧血してるからかもしれないから検査しようというからするのかなと思ったがしなかった。カルテに書いてもういいよと先生いう。今日はしないのかしら。まさか血を取らないとわからないのにどうしたのかしら。今日はしないのかしらと不審に思い出る。

カード表もらい下に下りる。金額入れに入れてしばらく待つ。名前呼ぶ。金額言って時夫君を見つけてもいない。どこにいるのかしらとあっちこっち見る。しばらくすると来てるので手振る。声出ないと不自由である。仕方ない。いつも情けない思いする。名前書いて渡すつもりで書く。時夫君来てくれたので必要なくなった。時夫君に支払いに行ってもらう。薬待ちしばらく待ってやっと薬もらう。飲み薬、座薬、粉薬、傷薬ともらい車の所へ行く。

曇りになった。今にも雨が降って来そうだ。車のそばに来るとタイヤがへこんでいる。タイヤパンクしてるので早く帰ることにする。帰りに時夫君はソフトアイスクリーム買ってくれてウーロン茶大ビン1本買う。11時50分頃終わりテレビドラマやっていたが着いたのは1時40分頃だろう。2時の流動食支度して私のためにしてくれた。嬉しいことよ。早速昼食のためラーメン作った。時夫君喜んで食べてくれた。

時夫君タイヤパンク修理持って行く。アイスクリーム食べコーヒーこさえて蒸しパン食べこの頃良く食べる。でもおなかの中に入らないのでひとつもいっぱいにならない。良く飲むので胸びしょびしょだ。いつになったら食べれるようになるのかしら。気が遠くなる思いする。がんばらなくては。これではだめになるかも。いや駄目にも死ぬもできない。8日に長崎くんちがやっていた。生きてるおかげで見ることできたのだ、命拾いしたお陰で。本当にありがとう。病院の先生方に子供達や夫のために命を三度も助けてくださってありがとう。本当に生きて良かった。助かって良かったと思う。私のような女はいないだろう。自殺しても助かるし今にも死にかかっても助かる。やはり私は生きるべき女性なのだと思う。生きて努め果たさないことにはいけないと思う。私は命あるべき人間だと思う。本当に生きて良かったと思う。これから子供や夫のために生きていこう。

3時過ぎ時夫君はタイヤ修理持って行く。早4時も過ぎた。これから寝るわけにはいかない。食べたり飲んだりしてるうち時間過ぎた。もうすぐ美智子達帰って来る。5時帰って来た。食料品買って来てくれてありがとう。夫はキャベツ半分持って刻んでマヨネーズつけて食べるという。マヨネーズ買って来てると見せる。5時30分夫ビール飲んでいる。キャベツサラダこさえ食させる。

6時食事支度する。7時食事流動食支度。7時30分食する。8時済み洗いやけ。今日は火曜日でセンターへ行く。久君6時40分今日は遅く帰って来た。里芋買って来たので食する。9時40分眠くなったので先に休むことにする。時夫君帰る。食事、お風呂。私はお風呂入らず先に休んでしまった。時夫君や美智子寝たのも知らない始末。良く眠れる。幸福な奴よ。今日も無事に過ごせてありがとう。