母心

愛媛県立中央病院入院中の1991年に54才で亡くなった母の日記です。

1990年12月19日

夫出勤6時に家を出る。パン食らしい。私はおなかに胸痛む。6時40分久君起きて来たので朝食支度してあげる。いつの間に買い物に行ったのだろうか。いないので2階に上がって寝ているとばかり思ってた。12時久君昼食。12時30分注入しながら昼食。私達3人県病院。3時30分出かける。久君はバスが6時30分だからオートバイで5時30分に出かけて県病院へ置いとくという。盗まれないと良いが。4時の予約である。着いてカード差しに入れる。名前呼ばれて行くけど返事できないので看護さんのそばに近づいても気が付かない。2回目に時夫君が返事してくれ看護婦さん肩を叩いてようやく気付く。声が出ないと不自由である。早く声が出てくれたら良いが。名前呼ばれて中に入る。体の心音する。心音は良くなっているという。背中の痛みは胸と関係ないという。背中を押してそこが痛むというと尿の検査してみるというがおしっこしてきたので出ないというと来週するという。薬出しとくから背中は貼り薬貼りなさいという。来週に尿検査するという。終わって会計課に出してくれお金を払ってくれる。私は美智子と共に売店で買い物する。終わって待ち合室行く。車の中で待つことにする。2、3分程して来る。

帰りしな電子毛布買ってもらう。今晩から暖かく休める。ありがとう。本当に助かる。うれしい。美智子は僻み根性になって怒ってる。今度はスーパーで買い物する。アイスクリーム買ってもらう。済んで我が家へ帰る。着いたら久君出かけたのか家の中はもういなかった。私が元気だったら着いて行きたい。お金さぞ入ることだろ。少しでも父ちゃんあげたら良いのにとうとう一銭もあげず出かけには日勤ゆえいない。さぞ淋しく出かけたんだろうに。私が声が出たら話しができるのに残念である。何たって声が出ないことである。声が出るとわざわざ紙に書かなくてすむのに本当に残念である。どんな気持ちで旅行するんだろう。単純な気持ちで行ったんかしら。それとも友達いるのかしら。10日間もいるという。淋しい。一人欠けても淋しい。10日間心の中に穴が空いたよう気がする、どうか無事に帰って来て欲しい。5時45分我が家に着く。消防車来ていたらしい。ボヤで済んで良かった。子供の遊びからだろう。ボヤで良かった。一台消防車入り口に置いている。時夫君西山君の所へ行くらしい。引越しだからしんどいだろう。着いて夕食支度。8時18分夕食。夫帰る。ビール飲む。一人飲む。酒の味さぞにがいだろう。昔は飲めたが近頃さっぱりである。時々管の所痛む。11時44分体拭いて休むことにする。