母心

愛媛県立中央病院入院中の1991年に54才で亡くなった母の日記です。

1980年10月29日

朝4時40分尿しに行く。45分水500cc飲む。5時17分一回目の尿取る。30分後二回目尿取る。今度は60分後尿取る。三回目120分後尿取り終わり。7時37分食事する。食パン2枚、牛乳、柿1個、みそ汁はわかめ、もやしだった。みそ汁と柿だけ置いて食べる。7時45分下に買い物行くが店は閉まっていた。売店は8時にならないと開かないのだ。

8時半美智子と時夫来る。峠付近で車がストップしてしまって動かなかったので遅くなったらしい。早速私が注射してあげる。すぐ朝食させる。しばらくして屋上に行き日向ぼっこする。11時昼食のため下りて昼食する。12時10分診察室に行き喉の奥診る。

明日1時半より手術があるため今日は午後から説明があった。晩の9時より絶飲食になる。じんましんがあること言ったら9時までに飲んでくれと薬をくれた。これからは喉の最後の声の録音を取るらしい。それに喉のひげを剃るのと風呂に入って夕方は注射して安定剤を飲んで休むらしい。麻酔科の先生が来るので部屋におらなければいけないのでなるだけおるようにしてるが美智子たちが心配でならない。

12時50分まだ先生は来ない。早く来たらいいのに。明日はいよいよ最後の時であり最後の命になるやらもしれない。1時半看護婦さんが首や胸付近を剃る。部屋に来たら部屋に来たら紙に電話番号書いて時夫はいない。どこへ行ったのやら。探してもいないのでしばらく待つことにする。今度部屋に行ってみると時夫が来ていた。3時風呂に入る。上がってすぐ声の録音室へ。2階の耳鼻科へ行く。浦島太郎の童話を読む。これで声の最後の録音する。部屋に戻り面会室に入りしばらくテレビ見る。4時夕食の時間になる。美智子はそばで見ている。今日は塩鮭、ポテト、すり大根、シチュー。今日は昨日よりおいしかったので案外食べた。朝より歯が痛く思うように食べれないので困ってしまう。

ちょうど食事していたら麻酔科から二人見えて説明する。心臓は悪いのか良いのか知らないし盲腸は20才ぐらいの時手術した事話す。どんな具合でしたかと聞くので局部麻酔だと言っておいた。胸を調べ喉を診てアゴを診る。色々と調べて全身麻酔だから寝てるうちに手術するので痛いことないという。でもやはり怖いし不安でならない。声の方は今より少しは出にくいが徐々に出るからという。どっちが本当なのかしてみないとわからないのだろう。器官の間に細い管を入れてするらしい。どんなにするのか知らないけどやはり怖い限り。悔やんでもどう言っても明日の1時半に手術が行われる。人のことじゃない自分のことだから。子供のこともあるし子供のためにがんばらなくては。そう心に言い聞かせている。

5時40分夫見える。早速電話掛けに行く。母を連れに行くといって来たそうで、したらいないので自転車で迎えに行って来ると出て行く。6時注射。出血止めの注射らしい。もう10分程したら着くと思う。どうもなければ良いが、無事に着いてくださいよ。

あんな食事では栄養失調になるが、何とかしなくちゃいけないと思う。後で考えよう。母が来る。もう来ないと思ってたら来てくれた。日赤だと思って日赤に行ったらしい。2回も行ったと言った。65才になってこの暗い道を歩いて行くのは億劫で、いっそ止めようと思ったかしれないと。また奮い起こしてそれではいけない、行ってあげなくちゃと。涙ぐんでいた。

8時45分もうすぐ消灯時間だからと帰って行く。私は則子さんに電話かけようと思ってかけたが出ないので間違いと思い夫に電話かけて母が来たこと知らせて則ちゃんの電話教えてもらいかけたら、今使用してないという。どうも電話取り外したのだろうか。どうもおかしい。

部屋に戻り歯を磨き、9時になったので安定剤らしい薬2錠飲む。しばらくして灯は消えたので寝る。歯が痛く思うように寝れなかった。でも知らぬうちに寝てしまう。