母心

愛媛県立中央病院入院中の1991年に54才で亡くなった母の日記です。

1980年11月7日

6時体温計持って来る。6時30分看護婦来る。熱36.5度。じんましんで眠れなかったこと言う。傷跡少々痛みそれでも眠れなかった。看護婦が出て行った後しばらく寝る。だけど眠ってはいない。7時朝食。7時30分ようやく朝食済んで横になる。

しばらくして久、時夫、美智子来る。まさか久が来るとは思ってなかったので嬉しかった。もっともっと話がしたかったが声が出ないため話すらできないとは。そりゃ覚悟はしてたが現実にぶつかるとどうしようもなく淋しく悲しい。

私の胸の切開の所を昨日から取り外してガーゼを当てている。でも空気穴からたんは出るようになってるからたまたま出て来る。それ見て久は気持ち悪いという。子供は何気なしに気持ち悪いというけど私は情けなかった。でも仕方あるまい。

美智子注射しに行って、してもらってくる。早速朝食する。しばらくして久と時夫は地下の食堂へ食べに行く。8時半三人は帰って行く。

しばらくして姉さんが来る。孝ちゃんからもお見舞い預って来たからといって差し出す。私は遠慮したがもらっとくことにした。私が言おうと思ったらすぐしゃべるなといって手でさえぎるばかり。夫が5万円借りてもらっときやと言ってたので私はお礼も言いたいし話したかったのだが、日赤に行かないといけないと急いで行ってしまった。

あまりに哀れだと思う。今日も考えされる。本当に入院して良かったのだろうか。私はこんな思いまでして入院したいと思わない。でもしないと命に関わると言われればするより他ないだろう。意を決して入院したのにあまりに悲しいことばかりあると本当に子供の言う通り、夫の言う通り入院して良かったのかと迷うばかり。

しばらくテレビ見てたので何だかしんどくなったので横になる。11時の昼食時間知らなかった。掃除婦のおばさん持って来てくれた。昼食済み寝る。2時検温し3時30分看護婦さんが私がかゆがってるので体を拭いてあげるといってバケツにお湯を入れて持って来た。体を拭いてもらって上機嫌。頭がかゆいので洗って欲しいというとすぐ洗ってくれるという。シャンプーないので1階に買いに行き3階に上がって来ておしっこして昨日からおしっこ貯め無くて済むので良かった。しばらくして浴室で髪洗ってもらう。今日は本当に良い日だ。これで今晩はぐっっすり眠れそう。

4時夕食時間。大分食欲が出てきた。みんな我慢して食べることにした。沢山食べて早く元気になり一日も早く良くなって退院しなくちゃいけないから。私には子供が付いているから平気。

10時半頃治療があった。呼び出されて行ってしばらくして治療受ける。今日の先生は田中先生とか。声をもっと出してごらんというのでこれで出ないのだというと出るんじゃがと言ったきり。本当にこれで声は出ないのだろうか。やはりもう少しは声が出て欲しいと思う。また声のことになってしまう。もう何も考えず一日も早く退院できるよう、一日も早く元気になるよう努めることにする。

4時50分横になる。6時頃母が来る。話したくても声が出ないため苦労する。話をしてたら姉さんと淑子さん見える。また淑子さんから1万円見舞金もらう。しばらく話す。何を聞いても気にしないことにした。気にしてたらたまらないから。母があまり言うから姉さんなんかはなぜもっと早く病院に行かなかったろうか。わざと手術したのだと思ったかもしれない。でもいいのだ。思いたい者も思ったらいい。

6時40分夫来る。何話す間もなく姉さんと淑子さんと出て行く。母はしばらくいてカラオケビデオカセットと花瓶類他持って来るからといって出て行く。夫にもらったお漬物を忘れていたので私が持って行く。一緒にエレベーターに乗り1階まで下りて出口まで行っていたら夫と会い夫と母は一緒に帰って行った。

しばらくして今度は体温計持って来たので測る。7時45分おじさんとおばさん見舞いに来る。声が出ないからもっと色々話したかったがどうしようもない。何て不甲斐ない。情けない。見舞金3000円、果物でも買ってくれといって置いて行く。守衛が厳しいのであまり長いことおれないのでといい帰って行く。

急に淋しくなる。しばらく見なかったテレビドラマ太陽に吠えろを見る。9時消灯の時間で休む。熱37度。また少し微熱がある。