母心

愛媛県立中央病院入院中の1991年に54才で亡くなった母の日記です。

1991年8月6日

電話してもらうが留守番電話になってたので言うだけ言っておいたからと言ってくれた。6時40分注入。7時たん取りしてもらう。少し休んだらしい。早9時10分体拭き持って来る。打ったせいか知らないけどまた熱が出た。37.2度。9時40分連絡ついただろうか。11時までには来て欲しいが来てくれるよう祈るだけ。先生見えず。

朝方3時トイレに行くため下で歩くとしたらよろけて倒れる。おしりを強く打ったらしく痛む。頭は台で打ったけどあまり痛くない。湿布もらいおしりに貼ってもらう。支えられトイレ行く。早く良くなって欲しい。ショック。朝からついてない。いない時に限りよろけるなんて。起きてみると顔と手がえらいはれている。右手が余計はれている。どうしたんだろう。少し痛みが和らぐ。心配なので頼んで検査を頼もう。家に電話して来てもらおう。顔、手がはれてよろけて打つし、今日は朝早くからよろける。なんてついてないのだろう。主人に電話してもらい来てもらおう。自信なくした。くじけずがんばろう。その内に痛みも和らぐだろう。心配だから電話してもらい、来てもらおう。

3時3分よろけて打つ。トイレ行く。3時50分〜休む。湿布は和らがない。4時50分あまり痛むので痛み止め注射を頼んだら、前からの痛みか今打ったので違うという。診てからにしようといってくれた。検査もして欲しい。5時7分起きづらい。たん取りのため起きる。私の不注意からよろけた。痛み和らがない。痛い。痛むので動くのに困る。痛み止め薬注入していたが一向に収まらない。動くのに困難きたす。余計右足が痛くなったようだ。先生に診てもらうからといってくれた。体温37度。

9時50分処置室で待つよりベッドで少しおって見計らって行こう。おしりと頭が痛む。頭はそれほど痛まないがおしりが痛いし右足が余計痛む。10時45分来てもらうと言ってたので来ると思い寝ていたら婦長さん迎えに来たのでびっくりした。支えられ治療室行く。取り替え、手当て受ける。未だに来ない。やはり電話器取らなかったらしい。1時頃来るだろうか。もし来たら母に泊まってもらうように頼んでもらおう。もし来るとしたらお昼過ぎ頃だろう。もし来なかったらもう一度電話してもらい来てもらおう。じっくりお昼すぎまで待つことにした。

11時50分注入。点滴大小する。終わってたんを取ろうと起きて取るとまたも血が出ていた。1時とうとう来なかった。1時30分まで待っても来ないと駄目だ。連絡つかなかったんだろう。1時30分美智子も夫も来ない。電話で聞いたはずなのに。それとも出なかったのだろう。私を入院させたら心配ないからお金だけ払ったらいいのだ。私のこと気にしてないのか心配にならないのかどっちかだ。がっかりするし淋しい。もし時夫がいたらこんなことにならなかったのに。今頃どうしているのか。初出勤おめでとう。早く慣れてね。名古屋へ行ってしまったし、二年はいないといけないという。時夫君のために頑張らなくちゃと思う。いつまでも淋しい淋しいといっても仕方ないこと。この痛みが何だ。くそくらえだ。慎重にしなくちゃ。

2時30分母来る。少ししたら夫と美智子来る。水枕を取り替えてもらう。ティッシュペーパー売店より一箱分買って来る。3時30分帰って行った。母は弁当買いに行く。美智子のことを何で小さい声で話すのか、もっと大きな声で話すよしつけしないといけないとあんな奴はいないとひどいことを言ってた。親子の間なんか何も知らないのにあんなに言って欲しくない。声ぐらい小さくてもいいじゃないか。私は声が出なくて話したくてもできない。

夫に言って帰ってもらう。またかあっとなって怒ったらいけないから。心使いである。美智子が母、主婦代わりしてくれるので大助かりである。感謝すれど憎みもしない。ばあちゃんみたいに言うの嫌いである。

4時5分こっちは痛くてしょうがないのにべらべらしゃべっておしゃべりしたくないのに。それも美智子のことで。考えない人だ。私は病人なのに何もわかってない。困ったものよ。4時45分吸入式してたんを取る。打ち身はしばらく続くだろう。ひびは入ってないと思うという。体温36.8度。4時20分注入。8時30分検温36.5度。9時点滴小。睡眠注射してもらう。おやすみなさい。10時30分消灯時間。11時10分薬2ツ注入。点滴ようやく終わる。